登壇がない日は、ひたすら家か近くのカフェで資料を作ったり、情報収集をしています
今日はお天気も悪いので、じっくり自宅で資料作成。
良い感じに配布テキストのおおまかなイメージも浮かんできました。
そんなときに宅配便が届き、作業は一旦中断。
宅配スタッフさんから
「お休み中に失礼します」
と声をかけられました。
こんな時、以前の私なら
「お休み中じゃないのに!仕事してるのに!」
って、イラっとしたりザワザワしたり、何かしら反応していました。
でも、今の私は
「お休み中」とおなじくらい、リラックスモードで仕事ができる自分が好きなので、なんの反応も起こりません。
強いて言えば、相手の状況を察して配慮した言葉をかけてくれたんだなーって思うだけ。
だから、無言で「ニコ♪」っと応えました。
イラっ・ザワザワな以前の私と、ニコ♪の私との大きな違いは、「罪悪感」の存在があるかないかです。
バリバリの会社員だった私は、フリーになったとき
・満員電車に揺られて
・毎日決まった時間に
・決まった場所に行って
・決められた仕事をする
……をしていないことに、心のどこかで引け目がありました。
会社員だった私は、上の4つに「仕事してるなー」っていう実感を持っていました。
だから、それらがなくなったとき、漠然とした「罪悪感」があったんですね。
それで、日中自宅にいて、宅配便を受け取るときに
「お休み中」=仕事をしていない
と思われたことに、反応しちゃったんです。
ここに気づいたら、
・満員電車に揺られなくてもいいんだよ
「なぜなら、それでも私は私で素晴らしいのだから」
・毎日決まった時間に出かけなくてもいいんだよ
「なぜなら、それでも私は私で素晴らしいのだから」
・決まった場所に出かけていかなくてもいいんだよ
「なぜなら、それでも私は私で素晴らしいのだから」
・決められた仕事をしなくてもいいんだよ
「なぜなら、それでも私は私で素晴らしいのだから」
そんなふうに、ひとつひとつの罪悪感とさよならしていきます
ここ数年は、夜間や週末に開催されるイベント、友達との飲み会に顔を出さない自分に、そこはかとない罪悪感を感じることがあります。これは、家族との時間を楽しみたい、睡眠時間をしっかりとりたい、など、自分なりの理由があって、自分で選んだことなんだけど…。
それでも、取り残された寂しさと同時に、罪悪感があります。
小さいころから、お友達みんなと仲良くネって教育されてきた影響もありそうです。
そんな時は、
・私はイベントに参加しなくてもいい
「なぜなら、それでも私は私で素晴らしいのだから」
・飲み会に顔を出さなくてもいい
「なぜなら、それでも私は私で素晴らしいのだから」
ひとつひとつのことに「それでもいいんだよ」って許可していきます。
罪悪感を手放していくと、心が軽くなるよ。
ひとりじゃむずかしい時には、お手伝いします。